“素敵”の“敵”ってどんな“敵”?

 

大海原に抱かれるように沈んでゆく太陽を見て、“素敵だなあ”と呟く。

 

華やかなネオンに染まる街並み、さんざめく灯りを見下ろし、“素敵ね”と囁く。

 

ある人の優しさ、勇敢さ、真っ直ぐな瞳に、“素敵な人だね”と心魅かれる。

 


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ー素敵だねー

ある日の昼下がり、読書にふけっていた私の頭に、ふとこんな問いが浮かんだ。

 

“素敵”の“敵”は、なぜ“敵”なんだろうかー

 

“素敵”だと感じるとき、とりわけ“人”に対して感じるとき、

そこに“敵”対意識は生じないはずである。

 

あれこれ考えていくうちに、こんな結論に達した。

 

ー“素”で“敵”わないから、“素敵”なんだー

 

“素”というのは、ココロの真の姿であり、すなわち“本心”である。

妬みや劣りを感じることなく、純粋に“敵わない”と感じたときに初めて

“素敵”と感じるのである。

 

…ここで幕を下ろしてしまってはどうも味気ないので、再考してみる。

 

私たちはたいてい、“自分が持っていないもの”“努力しても到底できないもの”

を他がやってのけているのを見て“素敵”だと感じるのだろう。

 

 

それは間違ってはいない。

けれど、いま一度、ココロに問いかけて欲しいのだ。

“私もそんな一面があるのかもしれない”と。

 

“素直で嘘をつかない、心が綺麗な人だな”

“どんなときも、逃げずに真っ直ぐ向き合える人がいいな”

そう感じるということは、自身にもそんな一面があるからなんだと最近気が付いた。

 

私は、そんな一面を持つ自分を受け入れることなく意地を張って生きてきた。

嘘がつけないのに自分に嘘をつき、誤魔化せないのに顔色を伺って誤魔化しつづけてきた。

だが、真剣に真っ直ぐに、あの時の感情を受け入れきちんと向き合ってみると 

私のなかの“わたし”が、これまで身動きがとれず縛られていた私が、

縄をふりほどき、駆け出した。

なんの曇りのない、透き通った瞳。

 

ありのまま生きていれば、同じ面を持った人に囲まれる。

“素敵だな”と思える人と出会える。

“素敵”な人と、また繋がれる機会がやってくる。

 

こうやって、縁はつながってゆく。

 

“素敵”と感じる瞬間とは、

その人がその人らしく、本音のままで生きている瞬間である。


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自身を労わり、許し、受け入れている証拠である。

“すべては自分なんだ”と、自分を信じられているからこそなのである。

“本音で生きていいんだ”“思い通りの人生を望んでもいいんだ”

“どんな感情も、素直に感じていいんだ”

 

そう心から思えた瞬間、

私たちは誰もが“素敵な”人になれる。

 

このご時世だからこそ、

私たちの“ほんとうの心”を解き明かす

“素敵”な旅に出掛けよう。