「表現の自由」はどこへ向かうのか
日本において「表現の自由」が保証されるようになったのは、
1945年のGHQ統治下で草案された「日本国憲法」からである。
この「表現の自由」について、日本国憲法第二十一条でこのように謳われている。
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
(wikipediaより抜粋、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC21%E6%9D%A1)
この条約にのっとると、本や漫画などの出版物はどこぞの週刊誌、どこぞの県で行われた展示会のように著しく人権を侵害しない限り、書き手には言論の自由があるはずだ。
そんな「表現の自由」を奪っているのは、かつては国家だった。
今ではどうだろう。
私たち読み手や第三者が、書き手から「表現の自由」を奪っているのではないか。
先日のニュースで、
ある漫画の登場人物の名前が過去の歴史的惨劇を想起させるとして抗議され、
作者があえなくその人物の名前を変える事態となった。
あえて言及はしないが、ここまでくればもはや「いちゃもん」である。
こんなことがまかり通れば、極端な例を挙げると
ある本に出てくる○○さんが「昔嫌いだったやつだから出すな」と抗議しているのと同じである。
果たしてその意見は、全体のどれくらいの割合の意見なのだろうか。
そんな少数のわがままだけで、表現の自由が侵されるのは間違っていると
私は思う。
正義を振りかざし、書き手から創造性や自由な発想を搾取しているのである。
これは読み手である私たちにも責任があると思っている。
この情報過多の時代、
・どのメディアを選択するか
・どのような趣味を持つのか
・どの情報を選択するのか
まさに自由に決められる時代である。
「嫌ならするな」
これに尽きると思う。
そういった価値観を発信していくのは大いに構わないが、
それを他人に押し付けて大勢が犠牲になるようでは、それは自由と言わない。
暴挙である。
じゃあ丁度いいバランスのとり方は何なのか、
極端に人権を侵害している場合でも黙って見とくのか、…
という問いについては
人類がこれからより一層追求していかなければいけない永遠の課題である
ような気もする。
自由に選択できる時代、もう少し寛容になってもいいのではないか。
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